仏法は聴聞にきわまる
室町時代中ごろから出られた第八代蓮如上人は、宗祖親鸞聖人の御同朋・御同行の精神にのっとり平座で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれました。
当時、門徒へお念仏を広めていかれる中で、いつも語っておられた言葉があります。
それは「仏法は聴聞にきわまる」です。
浄土真宗は聞く宗教です。
聴聞の「聴」この漢字には、「一生懸命きく」「耳を傾けてきく」という意味があります。
聴聞の「聞」この漢字には、「私の思いや考え、聞き方にとらわれずきこえる」という意味があります。
この二文字を重ね「聴聞」と読み、「聴聞にきわまる」とおすすめになりました。
また、親鸞聖人は『一念多念文意』に、
「きく」といふは本願をききて疑ふ心なきを聞くといふ なり、
また「きく」といふは信心をあらはす御法なり、
と述べられています。
どうぞお念仏と共に御法話もお味わい下さい。
法話
三月の法話
五月の法話
五月に入ると暖かさが勢いを増してきます。
それまでは寒い冬の余韻を台地が残し、上空からは暖かい日差しが注がれるも土壌はまだまだ冷えたままでした。
この時期は旧暦では梅雨の季節ですが、現代ではちょうど田植えの時期になり早苗月(さなえつき)ともいいます。
この季節になると風邪を伝い緑の香りがどこからともなく漂ってきます。冬に凍った台地から徐々に緑が芽吹き、虫や動物たちが活動し始め、自然の中に新しい命の胎動を感じられます。
そんな生命の活動を私たち人間も少なからず実感し不思議と活力のようなものが湧き起って来るのではないでしょうか。
仏教では生命の起源などについては深く触れていません、今ある私たちの命に対しどこからどのように生まれたかは関係ないからです。
この地球上に数えきれないほどある命の内で、そのごく一部にすぎない私たち人間に生を受けたこと。
頂いた命に感謝して、私たちは「生きている」のではなく「生かされている」ことに気付かなければなりません。
私たちは心に「自我」や「意識」を持っています。そこに私たちを苦しませたり、楽しませたり、不安や安心をもたらす煩悩が生じます。
喉が渇けば水を、お腹が空けば食べ物を、体が疲れると睡眠を、煩悩があるからこそ生きていける私たちです。
その煩悩を満たすためには、数えきれないたくさんの命を私たちは頂いています。
だからこそ私たちはたくさんの命によって「生かされて」います。
頂いた命、生かされている私たち、捨てることのできない煩悩。
合掌して「南無阿弥陀仏」とお念仏申すとき、感謝の心を忘れてはいけません。
感謝するのは命を頂いたものにだけではありません。
仏様にもそのお念仏を通して感謝します。
何故、仏様に感謝するのか。
善導大師の『般舟讃』には次のようにあります。
仏身は円満にして背相無し、十方より来る人皆対面す。
仏様には背はなく必ず私たち一人ひとりに向かってくださっています。それは私たちを誰一人溢さず見捨てず必ず救うと約束されているからです。
他の命を奪わなければ生きていけない私たちに救いの手をさしのべ、「必ず救うぞ」と声をかけてくださいます。
その声こそが私たちの「心」「声」を伝って出る「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
初夏の風に乗せられ感じられる草木の香りも、実態はありません。
香りを連れてくるのは風ですが、風は何か、風は空気の流れです。木々が風に吹かれ揺らめけば音が鳴ります、しかし風その物を観て聴いているわけではありません。
仏様の私たちを救い取ろうとするお声も、お姿も、お光も見ることはできませんが、唯一お念仏によりそのお心を頂くことができます。
日々の生活の中で忘れてしまいがちな、「感謝」という言葉を今一度大切にしたいものです。
六月の法話
今年の梅雨は例年よりも早く訪れました。
毎年のことながら何とも言えないジメジメ感に、肌にまとわりつくような湿気、歩けば体で空気の壁を押しているようで、夏本番までは嫌な期間です。
しかし、このジメジメした梅雨がなければ台地を潤す大切な水を得ることができません。
田植えを終えた水田には豊富な水が引いてあります。その水と栄養のある土壌で稲が大きく育ちます。
仏の教えを説かれたお釈迦様は、自分の身に着ける衣を水田からヒントを得られました。
それは粗末な布を一つ一つ繋ぎあわせることです。
大きい田もあれば小さい田もあります。しかし、合わせていけば一つの大きな田になります。
仏様の救い取ろうとする願いは一つですが、その教えは一つではありません。私たち人間が生きていくうえで考えていかなければならない様々なこと、その一つ一つに応えてくださいます。
私たち人間は、考える力があるからこそ常に身勝手な生きかたをしてしまいます。
水がなければ雨が欲しくなり、降り続ければ災害を恐れて邪魔者扱い。自分の体が健康なときには気を使わず、病に罹れば気が小さくなり、悩みがなければ明るく悩みが増えれば落ち込み、自分の都合で「仏」頼み「神」頼みです。
そんな自分勝手な生き物が私たち人間です。だからこそ仏様はたくさんの教えを私たちに説き、その一つ一つを繋ぎあわせ必ずお浄土へ連れてゆくぞと約束されています。
仏様のお慈悲は尽きることのない生命の水のようなものです。
水がなければ枯れてしまう私たち人間の心を常に潤してくださいます。
その潤いこそが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
常にはたらきかけて下さるお慈悲に対して、自分勝手な都合主義ではいけません。
稲の一つがたくさん集まり一つの田を作ります。そして一つの田が無数に集まり一つの田園地帯を作ります。
「自分」ではなく、たくさんの内にある私であることにお念仏を通じて自覚したいものです。
七月の法話
早いもので今年も半分を過ぎました。
小さい頃の時間感覚といえば、楽しい時間だけが早く過ぎてしまいその他の時間は異常なほどに長く感じたものです。
大人になると楽しい時間だけではなく、退屈な時間や煩わしい時間さえもが早く過ぎて行くように思えます。
誰かと会えば「もう1ヶ月が過ぎた」などと話したりします。
特に楽しいことがあったわけではなく、忙しい時間が増えたのかもしれません。
「忙しい」とは「心を亡くす」と書きます。
仕事や家事だけでなく、持て余す時間も「忙しい」時間になっていないでしょうか。
7月の節句と言えば「七夕」です。
七夕の発祥は中国だそうで、アジアでは中国、ベトナム、台湾、韓国、日本などで節句の行事として行われています。
ご存知の通りの「彦星」と「織姫」ですが、この二人結婚するまではたいそうな働き者だったそうです。
ところが仲が良すぎて仕事をしなくなり、怒った神様が二人を別け
1年に一度しか会えなくなりました。
七夕が日本に伝わったのは奈良時代です。
時代を超え長く愛される物語は時間の流れが実にゆっくりとしています。現代の私たちは便利さを求めるためにとにかく合理的に物事を運びがちです。
仏教用語に「諸行無常」という言葉があります。
一般には「盛んなものが廃れる」「儚い」など、どちらかと言えばあまり良い意味では使いませんが、本来の意味は「移りゆく」という意味です。
人が成長することも老いることも無常です。今日の私と明日の私も無常です。自らが心に決めたことも、いつ心変わりするかもしれません。病が進行するのも快復するのも無常です。
私たちの心や体そして身の回りに「絶対」は存在しません。常に無常の世界に生かされています。
親鸞聖人のこのような言葉があります。
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ
貧瞋邪偽多きゆえ 奸詐百端身にみてり
人間は外から見れば、賢くて、善人のような、怠ることを知らない努力家のような姿をしているけれども、一度心の内をのぞいてみると貪り、怒り、邪まな心、つくり飾りの心が多く、悪知恵とごまかしの心がこの身にみちみちている。
と悲しまれています。
無常であるからこそ悩みが生まれ煩悩が生じます。それを取り払うために人は様々な努力をします。
「移りゆく身」だからこそ私たちは煩悩具足の凡夫です。
ただ、阿弥陀様のお念仏そして私たちを救い取ろうとするお慈悲だけは絶対です。
古くから伝わる物語のなかには、私たち人間の愚かさを潜めたものが多く残されています。小さな頃は楽しく読めた物語も、大人になると本当の意味を探ってしまいます。
日々の生活に追われ心を亡くしてしまいがちな私たちだからこそ変わることのない「お念仏」に寄り添わせて頂きましょう。
八月の法話
八月に入り、ますます茹だるような暑さが続きます。
近年では毎年何らかの異常気象が起こり、記録を更新しているように感じられます。
小学生、中学生の頃クラブ活動で「水を飲むな」と厳しく指導されました。
今思えば、最高でも32~33℃程度の気温だったからこそなんとかなっていたのだと思います。
決して、未知数である「気合」や「やる気」があったからではありません。
「気」を引き締めると、根拠のない「気合」は別物です。
関東では7月半ばからお盆が始まり、西日本では8月半ば迄にお盆を済ますのが一般的ではないでしょうか。
この「お盆」ですが、もとはお釈迦様のお弟子であった目蓮が自分の母親があの世で苦しんでいるのではないかと、お釈迦様に相談したことが発祥だとされています。
相談を受けたお釈迦様は目蓮に「お母さんは、お前を育てるために様々な罪をおかした」
「救いたいのであれば、夏の安居(お坊さんの勉強会)の終わった日にみんなの人に〝ほどこし″をしなさい」
これを聞いた目蓮の毎年の〝ほどこし″が恒例行事となり現代のお盆になったそうです。
「ほどこし」とは「布施」のことを指しますが、「布施」とは阿弥陀様に差出し阿弥陀様より頂くものです。
自らが差出、自らが頂く、一連のその全てには阿弥陀様からの「はたらきかけ」があるから出来ることです。
「はたらきかけ」とは私たち「煩悩具足の凡夫」を必ずお浄土へ連れて行くぞ、という絶対的な阿弥陀様から頂くお慈悲です。
それでは阿弥陀様のお慈悲や救い取る手や光はどこにあるのか。
煩悩具足の凡夫である私たちにそれを見ることは出来ません。
だからこそ私たちは、阿弥陀様より頂いた、
「南無阿弥陀仏」のお念仏を通してそのお声を聴かせていただいています。
親鸞聖人は『一念多念文意』に、
「きく」といふは本願をききて疑ふ心なきを聞くといふなり、また
「きく」といふは信心をあらはす御法なり。
と述べられています。
阿弥陀様の「本願」とは「南無阿弥陀仏」であり必ず私たちを漏らさず溢さず、必ずお浄土へ導いてくださる約束であり願いです。
お盆というせっかく頂いた「御縁」のなかで、先祖の方々に感謝しお墓参りをして、先祖の方同様に私たちをお浄土へ導いてくださる「阿弥陀様」に何よりの感謝をしなければなりません。
普段忘れがちな「感謝」や、おろそかにしがちな「お念仏」や「ほどこし」を大切にしたいものです。
合掌
九月の法話
お盆を過ぎた辺りから朝晩の風に秋の香りを感じるようになりました。夏の厳しい暑さを乗り越えると爽やかな秋が訪れます。
味覚や視覚など五感を総動員して楽しめる季節であり、お彼岸の季節でもあります。
「彼岸」とは「到彼岸」のことで、「迷いの世界から、悟りの世界に到る」という意味です。
私たちの今いる世界は「彼岸」(悟りの世界)とは反対の「此岸」(迷いの世界)にいます。
秋分の日には太陽が真東から真西に沈むところから、その先に「西方浄土」を願いお念仏したことが始まりとされています。
日本では仏事と文化の繋がりを切り離すことはできません。元々の文化に仏事が結びついたものや、仏教の教えに基づいて形を成した文化もあります。
お彼岸にはお墓参りに行く人も多いですが、お念仏をする相手は「御先祖様」だけになっていないでしょうか。
私たちに繋いでくれたこの「命」に感謝する気持ちは大切にしなければなりませんが、「彼岸」(極楽浄土)に連れて行って下さった「阿弥陀様」に何よりお念仏して感謝しなければなりません。
それは今迷いの世界(此岸)にいる私たちもいずれは、阿弥陀様のお慈悲によって悟りを得て極楽浄土に生れさせて頂きます。
親鸞聖人は道綽禅師の「安楽集」より次の言葉を引用されました。
真言を取り集めて、往益(おうやく)を助修(じょしゅ)せしむ。
いかんとなれば、前(さき)に生れん者(もの)は後(のち)を導き
後に生れん者(ひと)は前を訪(とぶらへ)
連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんとす。
無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり。
(如来の真実の言葉を採り集めて、往生の利益を修めるように助けたい。
何故かといえば、そのためには、先に生れた者は後からくる者を導き
後に生れるものは前の人をたずねて、願わくば、それがいつまでも連続して
中途で途絶えることないようにしたいものである。
はてしなき限りなき生死の大海に苦しむ者を汲み尽くさんがためと願うものである)
お釈迦様が説かれた阿弥陀如来の私たちを救い取る願いは尽きることがありません。
先の人たちは全て極楽浄土に向かいそこで教化され仏になります。その姿は私たちの知る姿ではありませんし、煩悩具足の私たちには見ることもできません。
しかし、必ずお念仏と共に私たちを導いてくださいます。
だからこそ私たちは「御先祖様」を通して「南無阿弥陀仏」のお念仏を唱え「阿弥陀様」に感謝しなければなりません。
九月の季語に「爽やか」という言葉があります。
この「爽やか」は私たちの五感すべてで感じることができます。
お彼岸にはお墓だけでなく機会があればお寺にも足を運び、座り手を合わせ蝋燭の明かりに包まれてお香を楽しみお念仏を唱え阿弥陀様のお心を感じてください。
合掌
十月の法話
十月は衣替えの季節です。
この衣替えは平安時代の宮中行事から始まり民衆へひろがりました。
昔とは違い、現代では様々な衣服があり、特殊な繊維もあります。
暖かい時期には発汗性がたかい素材が使われ、秋や冬などの寒い季節には軽くて保温性のたかい素材がつかわれます。
身に着ける服や繊維に違いがあっても、「行事」から始まった衣替えの習慣が変わることはありせん。
それは私たちがその季節を快適に過ごす為だからではないでしょうか。
春から一年を通じて変化の少なかった民衆の着物に、四季折々の趣向や快適性が織り込まれていきました。
飛鳥時代に日本へ伝わった仏教が、教義の拡がりを見せ始めるのも平安時代です。
これから冬にかけて、多年草は冬を越す準備に入り、一年草は種を落して枯れていきます。
それと引き換えに、私たちにとってたくさんの食糧を残してくれます。
収穫で一番に思い浮かべるのが「お米」ではないでしょうか。
ながい年月をかけ、改良に改良を続け大勢の人を賄える、病気や害虫に強く美味しいお米ができあがりました。
普段私たちが何気なく手にする物や、口にするもの、そこには古より引き継がれてきた、多くの努力や探究心が詰め込まれています。
当たり前にそれを手にし、口にできる私たちはとても幸せなことです。
そんな私たちは、いろいろなものを疎かにしてしまいます。
阿弥陀様のお心を説かれたお釈迦様より、現代まで引き継がれてきた仏の教え。
この阿弥陀様のお慈悲も、「五劫」という想像もつかない長い年月を掛け、煩悩具足である私たちを救う「願」を起こされました。
「南無阿弥陀仏」のお念仏が当たり前にある今、口先だけの独り言になってはいないでしょうか。
お釈迦様が着ておられた「衣」も、私たちが現在着ている「衣」も根本は同じです。
縦糸に横糸を通してそのかたちを作りあげています。
阿弥陀様が真っ直ぐ私たちに届けて下さっている「お慈悲」に私たちは、心からの「お念仏」「聴聞」「感謝」を通していかなければなりません。
合掌
十一月の法話
11月に入るとぐんぐん気温が下がり、霜月と言われるように山間部を中心に霜が降りはじめます。
ただ日本全国でみれば北から南にかけてかなりの開きがあります。
日本の秋の風物詩でもある「紅葉」を楽しむためには、朝晩の冷え込みは欠かせません。
温泉宿の露天風呂などに浸かりながら眺める景色や、夜間のライトアップでの幻想的な風景も見ごたえがあります。
日本では気温20℃前後が一番過ごしやすく、心が落ち着き和むそうですが、
普段の生活の中で穏やかに感じることはあるでしょうか。
「和」(なごみ)、これを感じる場所や感覚、状況や季節などは人それぞれです。
朝焼けもあれば夕焼けという人もいるでしょうし、春ではなく秋、夏ではなく冬という人もいます。
食べ物に趣味、音楽やテレビに動物や花などその数や組み合わせにはきりがありません。
では、なぜ「和」を求めつくりだそうとするのでしょうか。
それは私たち人間が、機械ではなく心を持った生身の人だからです。
仕事や人間関係、金銭、学校、人生、病気に怪我そして死など。
その根本は「悩み」です。
そして、その悩みこそが仏教でいう「煩悩」です。
高僧和讃 龍樹菩薩 第七首に、
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらおば 弥陀の悲願のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とあります。
あるいは生じあるいは死して、生と死をぐるぐる廻るばかりで、生死を超えることも出る事も出来ずに、その生死の迷いによるがゆえの苦悩は大海原のようにはたしがない。
その海の底に長らく沈んでいたわれらにも、弥陀の悲願はこの悲しみをわが悲しみとし、絶望的な悲しみに同じて苦海に浮かぶ大悲の願船となって、手をさしのべて乗船せしめ、彼岸の浄土へ無事にわたしてくれます。
どのような人も最後に行きつく「悩み」は「死」であり、こればかりは自らでは何ともできません。
何ともできないのは「死」自体ではなく、その先にある「お浄土」に向かうことです。
生まれながらにして煩悩具足の衆生である私たち人間は、自らの力で「極楽浄土」に往生できません。
だからこそ「南無阿弥陀仏」のお念仏によって「お浄土」に向かわせて頂きます。
温泉に浸かったときに、ついついでてしまう声があります。
かけ流しの湯もそうでない湯も必ず限りがありますが、阿弥陀様のお慈悲に限りはありません。
だからこそ、そのお慈悲に浸からして頂いているときこそ「南無阿弥陀仏」のお念仏を唱えてはどうでしょう。
合掌